祈り

「誰も失いたくないと思うのは贅沢なことなのでしょうか」

 そのリュールの問いかけにクランは少し考えた後、わずかに首を振った。夜も更けた時間の寝台の上、二人並んで天井を見ていた時だった。

 ソンブルとの決戦が近づくにつれ、戦いは苛烈さを増していった。自ら先頭に立って剣を振るうリュールは誰に言われるまでもなく敵の戦闘力を肌で感じていたし、それだけに不安は濃い影のように彼の後ろを付き纏った。

 誰かを失うかもしれない恐怖。

「私は怖いんです、情けないですけど……戦場に立っている間はあまり考えないようにしてるんですが……」

 そこまで言うとリュールは自嘲的に笑った。

 神竜様がこんな表情をするなんて、とクランの胸は痛んだ。そして思う。こんな戦いなんて無ければそんな顔をする必要もなく居られたはずなのに。

 時間を忘れて眺めた美しい寝顔を思い出す。今目の前にいる彼はその時の印象とは違うけれど、目覚めてから歩き、笑い、時に落ち込み泣いたりする姿を見るたびに気持ちが募っていった。今も不謹慎ながら、痛む胸とは裏腹に初めて見る彼のその表情に見惚れそうになっていた。

 そんな気持ちを抑え、クランはリュールの手に自分の手を添えた。

「大丈夫です。神竜様が戦ってくださる限り、僕も他の皆さんも死んだりしませんよ」

 僕が絶対に守りますと言い切れたら、とクランは思う。言いたかったが、今は何を言っても空々しく聞こえてしまいそうだった。

 それにリュールが常に前線で戦っているのは他でもない自分たちを守るためなのだと分かっていた。本来なら守られて然るべきの神という存在が戦場で血を流し、返り血を浴び、更には肉親と同じ程に慕った存在を切り伏せた姿をクランは見てきた。

「ありがとうございます」

 リュールは言って、添えられたクランの手に指を絡め、力なく微笑んだ。

「差し出がましいかもしれませんが……僕の前では辛い感情を我慢しないで、自然にしてくださって大丈夫ですよ。泣いたりとか、怒ったりとか」

 その言葉にリュールは一瞬きょとんとするも、すぐに破顔した。

「ふふふ。私のことをすごく心配してくれてるんですね、何だか嬉しいです」

「だって僕は神竜様のパートナー……わっ」

 不意に抱きしめられ、首もとにリュールの呼吸を感じた。小さい頃に大きな犬にのしかかられたことを何故か思い出す。思わず笑ってしまうとリュールが伏せていた顔を上げてどこか楽しげにこちらを見ていた。薄闇の中でその宝石のような眼が瞬きをするのを眺めた。なんだか夢みたいだな、とぼんやり考える。

 再びクランの首もとに顔を伏せると、リュールは言った。

「クラン」

「はい」

「私がソンブルに殺されそうになったら、どうしますか」

「……絶対考えたくはないですけど、そうなる前にとにかくお側に駆けつけると思います」

「もしもの時は身を挺すということですか?」

「それはもう、神竜様のためなら死ねま…、」

 鎖骨のあたりに尖った感触があり、クランは驚いて下を向いた。

「しぬのはダメです」

「神竜様…今何を」

「クランが死ぬと言ったから噛みました」

 そういえば尖った歯があるというのは口づけをしたときに気づいていた。

「嘘ですよ、死なないです絶対」

「今度言ったら跡を付けます」

 神竜様の歯形、それはプレミアものですね、とファンクラブ会長としての自分が喜びの声を上げるのを心の中に押しとどめて、クランはそっとリュールの髪に手を添えた。

 顔を伏せたままのリュールは呟く。

「この戦いが終わって、無事にみんな生きられたとして、それぞれの国に帰って幸せに過ごして……。だけどわかりません、長さなんて」

 生きる長さなんて。

 噛み締めるようにしてその言葉を思った。

 あまりに遠いところで人の生死は強大な力で決まっていた。

 神竜はそこから外れたところに居て、ただその理を見守り続けることしかできない。

 それがどのようなことなのかクランには想像もつかない。ただ、リュールの髪を撫でることしかできなかった。


 そのうちにリュールから規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 人々の信仰対象を胸に抱きながら、クランは誰にともなく彼の幸せを祈り目を閉じ、眠りに落ちていった。