常人にとっては永遠にも思える千年も、眠っていれば一瞬に思えた。
それほどに長く生きてもまだ知らないことのほうが多い、その多さに眩暈がしそうになる。自分のことを年端もいかない子供のように思えてくる。
「これからお過ごしになる時間のほうが遥かに長いのです。焦らずとも少しずつ学んでいけば立派な王となれましょう」
即位式を終えてすぐ、不安を漏らした私にヴァンドレが言った。その傍らでクランとフランは微笑んで頷いていた。
私は数日前にクランに指輪を渡したばかりだった。まだ周囲に言ってはいない。何となく、即位式が終わって落ち着いてから発表しようと思っていた。指輪をしていない左手を見るに、クランもまだ誰にも言っていないのだと思った。
「はあ……昨日は疲れました」
次の日、果樹園の林檎の木の陰で並んで座っていた。思わずため息をつきながら話すと隣のクランが、おつかれさまでした、と微笑んで私を見る。
特に人目を忍んでいる訳ではないけれど、以前からたびたびここで話していて、落ち着くので気に入っている場所だった。
「でもやっぱり神竜さまのあの正装のお姿は神々し過ぎて…直視できませんでした」
「おおげさですよ、私自身はいつも通りなんですから」
「そんな。こうしてお話している今もまだ、いろいろ信じられなくて、夢をみてるみたいだというか」
そう言って照れくさそうに頬をかくクランを見ていると、かわいい、という言葉が頭に浮かんだ。伝えると喜ぶだろうか、一瞬迷っているうちにふと目が合って会話が途切れた。
気づいたら唇同士を合わせていて(後から人に聞いたところ、きっすという行為らしい)私は目を開けたままだったけれど、クランは目を閉じて息を止めているようだった。苦しいかな、と思って唇を離すと目を開いたクランはすぐに俯いてしまった。
具合でも悪いのですか、と声をかけながら顔を覗き込むと真っ赤になっていて、思わず「え」と声が出る。こんなに急に熱が出るものなのか。そういう病気なのだろうか? 私は心配になってしまい、クランの額に手を当てた。
「風邪ですか? 急病だったらジャンに診てもらわないと」
「……病気じゃ…ないです」
クランは額にあった私の手をとると、ごく弱い力できゅっと握った。熱いしかすかに震えているように感じられて、やはり熱で具合が、と言いかけたところ、クランの視線と私の視線がぶつかり合ってその瞬間なぜだか私の心臓は音が聞こえるほどに鳴った。ように思えた。
その時あらためてじっと見たクランの瞳は透き通る綺麗な石のようで、辺りが暗ければ発光する猫の瞳のようでもあった。そういう目で私をはっきりと見つめてくるその姿に何だか少したじろぎそうになる。やがて「神竜さま」と私を呼ぶ声が沈黙を破った。はい、と応えるとクランは赤い顔のまま目をそらしてぎゅっと唇を噛んだ後こう言った。
「もう一回、したいです……」
私はその時、唇を合わせるその行為をきっすと呼ぶことも知らなかった。特別な行為だとは到底思えなかったし、クランがもう一度行うことを望んでいるので何か変な行為ということでもないのだろうと考えて、いいですよ、と軽い気持ちで告げた。
「えっ、いいんですか…?」
したいと言ったのはクランのほうだというのにどうしたことだろう、と思いながら私は笑って頷いた。
二度目も私は目を開けたまましようとしていた。
「…あの、恐れ入りますが、目を閉じていただけると」
そう言ったクランは気まずそうに苦笑していて慌てて目を閉じた。目を閉じるものなのだと初めて知った。閉じた瞼の向こうでクランが「ありがとうございます」と呟くのを聞いた。
さっきより少し長い間唇が合わされて、やがて離れた。なんだか呆気なく感じてしまった。もっとしていたいかもしれないなどと思った。こんな気分は初めてだった。目を開くと恥ずかしそうなクランが、立てた膝を抱えるようにして座り込んでいた。
私は初めての不思議な気分に突き動かされるままに、クランの肩に手を置いた。その肩は華奢で、押したら倒れてしまいそうだな、と感じた。
あっ、と口に出した時にはクランの背中は地面の草の上にあって、頭は咄嗟に差し出した左手で庇っていた。
「あ……あれ?」
力の加減か、バランスを崩したのかはよくわからないけれど謎の状況になってしまった。私は首を傾げた。
「し、神竜さま……こんなところで…その……」
目をぐるぐるさせながらいまだ赤い顔のクランが私の下で言った。
「まだ陽も高いですし…! せめてお部屋で」
「え?」
よく分からないことをうわごとのように言う。手で庇ったはずなのにもしかして頭を打ったのかもしれない。
「心配です。やっぱりジャンに診てもらいましょう」
すると、失礼しますという声とともに私の背中にクランの手が回されて、少し力が込められたのがわかった。
私はそれに促されるようにして首の後ろに手を回してクランを抱きしめた。
「病気でもいいので、もう少しの間こうしてたいです……」
その、聞いたことのなかった声色にまた心臓が跳ねた。こんなに触れあったのも初めてで、言いようのない熱のようなものが身体の中にたまってきているという心地だった。
私も病気かもしれません、と呟くと、おそろいですね、と楽しそうな声が聞こえた。
ちなみにこのあと果樹園に人が来てしまい、正式な発表の前に関係は知れ渡ってしまったのだった。
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