要するにそれは初恋というものらしかった。
しかし俺はそれを絶対に認めたくなかった。
『鴨などの雛鳥は、孵化した直後に出会った動く物体を追いかけてついて行くようになるんですね、これを刷り込みといいます』
よく分からないが何だか少し耳が痛かった。
朝からやっている動物の番組を、コーヒーを啜りながら適当に見ていたらこんな気分にさせられるとは思いもよらなかった。
例えばマリオンが今のこの番組を一緒に観ていたからといって、「これはオマエとガストの関係に似てるな」などと言うとは思えなかった。恐らく気にしているのは俺自身だけで、その証拠に、「エスプレッソカップが見当たらない」と探し回っているガストは画面を見さえもしていない。
何もガストの後ろを俺がついて回っているという気味の悪い状況というわけではなく、精神的な話だった。
ほっとけないから、というのがあいつの口癖のようになっていて、それなら勝手にしろ、と思っていたが、そんな数多の節介に助けられてきたことは割とあった。というかかなりあった。それを自覚したのは最近だった。
自覚してから、なんとなく目で追うことが増えた。
アカデミー時代の同室の、もうほとんど顔も思い出せないやつに、ガストと同じように節介を焼かれたからといって今と同じような気持ちになるのかというと、答えは否だった。
そこまで考えて、自分の感情に名前がつくことにやっと思い至った。
しかし名前がついたからと言って何か行動を起こさないといけないわけでもない。放っておくことにした。幸いにして感情や表情が乏しいことは自覚しているし、きっと表沙汰になることはない。
「あれ? レン、それ俺のカップ……」
飲み干してテーブルに置いたカップはGとイニシャルが入っている。寝起きでぼんやりしていたので間違えていた。
「間違えた。…だいたい俺はカップに拘りなんかない、面倒くさい」
「せっかく買ってきてやったのに……まぁいいや、じゃあレンの使わせてもらうぜ」
「好きにしろ、俺はもう出る」
そうだ。わざわざ自分と俺のイニシャルが入った、揃いのカップをこいつはこの間買ってきたのだった。
お前は一体どういうつもりだ、と口まで出かかった言葉を飲み込んだ俺はそのとき、顔が熱くなっているのを感じていた。柄にもなく。「仲いい感じ出てるだろ?」と無邪気に笑うのを見て、溜め息をついた。こいつは誰に対してもこうなのだと、自分に言い聞かせる。
テレビからは、刷り込みは不可逆性のものである、という解説が聞こえてきていた。もう少し続きを聞きたい気持ちもあったが俺の背後でリビングの扉は閉まり、何も聞こえなくなった。
俺のこういう気持ちが消せないものであるとしたら、と思うとぞっとする。
オフの日もあいつが一緒だと何となく部屋に居づらくなって、外に出ることが増えた。何となく落ち着かない。「何となく」などという抽象的なものに振り回される自分も腹立たしい。
公園の池には鴨が数羽浮いていた。ベンチに座って、頬杖をついてそれを眺めた。
孵化する前に戻れたら、と思う。しかしアカデミーでもしあいつが同室だったとしてどうなっていたのだろうか。アカデミーの頃の俺は今よりもっと精神的余裕も無く、事務的な会話以外ではたまに会うウィルと接した記憶くらいしか無い。単純に、どうでもいいことを覚えていないせいもあるとは思うが、さすがに酷い有様だな、と自嘲する。そんな状態でも、あいつは殻を破ってくるのだろうか。
気付いたら俺はガストのことを考えていて、何のために公園に来たのか分からなくなっていた。それならもう戻ろうと思い腰を上げると、途端に空気の冷たさを感じた。思いのほか体が冷えていた。くしゃみをひとつすると、鴨はゆっくりと動き出した。
部屋に戻ると、ガストは机に向かって司令部に提出する書類を書いていた。
「おー、お帰り。ちょっと明日出す書類でアドバイス欲しいとこあるんだけど、見てもらえるか?」
「ああ」
「わりぃな、帰って早々」
ガストの机まで向かい、話を聞きながら書類に目を通す。少し下を向いたので、鼻を軽くすすると、途端に「風邪か?」という声と心配そうな視線が飛んできた。
「……前から思ってたが、お前は母親か?」
「いやー、妹もよく風邪引いてたんだよ、ほんとは寒いのに寒くないとか言ったりしてな!あの無駄に意地張るのはなんなんだろうなぁ」
笑いながら妹の思い出を語る声と共にべたっと無遠慮にガストの手のひらが額に貼り付いてきた。ぬるい。振り払えばよかったのに何故か出来ずに睨みつけた。情けないことにそれが精いっぱいで、今の俺にできることの全てだった。また、顔が熱くなり始めていた。
これ以上間違わないためにも、自分から触れるわけにはいかない。
「うん、全然熱くないし大丈夫そうだな。ゆっくり風呂浸かれよ」
そう言ってへら、と笑ったこいつは俺の体温が普段もっと低いことも知らない。
知らないままで早くこの3年が過ぎてしまえばいいと思う。
相変わらずレンの寝起きの悪さはひどい。
俺は一度ドクターに相談したこともある。心配なのもあるが、それ以上に毎朝の一連の流れが少々重荷になってきていたからだ。髪のセットももうちょい念入りにやりたいし、朝飯も普通に食いたかった。
「血液検査も何度か行ったのですが、レンには貧血の気があるようですので鉄剤を渡しています」
何度も採血されていた様子だったのはハロウィンの時に気付いている。鉄剤も飲んでいる姿を見ている。
様子見ですね、とドクターは言う。
「そういうもんなのか?」
「はい。鉄不足によって疲労を感じやすくなる、寝ても寝ても眠気がおさまらないという症状はあります。まあ…鉄剤の他に普段の食事にも気を遣うとさらにいいでしょうね」
食事。たまに多めに作り置いて冷蔵庫に入れておくと無くなっていることもある。外食に飽きたらたまには食えよとレンには言っているので恐らくレンが食っているのだろう。実際、何度かその姿を見た。美味かったとか、礼とか、そういう言葉は別にあの性格のレンに求めてはいないが、あの寝起きが貧血が原因だとしたら一刻も早く治して欲しかった。何度も言うが髪のセットにはもう少し時間をかけたい。
「鉄分ねえ…」
「メンターとしてメンティーの面倒を見られないのは心苦しいのですが、料理はどうにも……」
ドクターの口角がよろしくない感じで上がる。絶対料理とか最初からする気ねぇだろ。思わず苦笑した。やれやれとか人生でそんなに思うことあるか?とか考えるけど俺は入所してから何度も思っている、それでも家にいた頃よりは色々マシなんだろう。
「気が向いたら、なんか鉄分多そうな料理作り置いとくよ。置いておいたらわりと食べるみてぇだからさ」
ドクターが珍しくにっこりと笑う。言って欲しいであろう言葉を俺が言う、ドクターもそういう言葉を俺が言うのを分かっている。円滑な人間関係(このセクターでは無縁に近い言葉だが)、できるところからやるしかないのだ。似た者同士のあと二人相手には時間がかかりそうだけど。
何度か作り置いた鉄分多めメニューをレンはもれなく平らげたようだった。
「思ったより美味かった」
という思いがけない言葉も貰った。それは結構嬉しかったが、寝起きの悪さは相変わらずだった。
レンの寝起きは夢遊病じみている。初めて見た時は正直驚いた。いかにも起きているかのように歩き回りながら実は寝ているということが何度かあって、その度慌てた。前髪を下ろしていた俺を知らない誰かと思い込んだ時もあった。起きてるときよりちょっとかわいいんじゃねーの?と思ったりもした。
そんなある朝だった。
いつものように声をかける。いつものように起きない。鳴り続ける目覚ましを止める。身体を揺さぶる。目を開けて身体を起こした。
ここからが二択で、当たりルートは普通に覚醒してる場合だ。
もう片方のルートは実は起きていないパターンで、うろつくレンを止めたり謎の言葉を理解しようとしたり骨が折れる。目が半開きのレンが「だれだ」と言い出した時点で悟った。今日はそのルートだった。
俺は髪のセットを半ば諦めた。まだワックスを馴染ませただけで前髪は上げられず垂らしたままだ。しゃがんでベッドの上のレンに目線を合わせた。
「似てるな……あいつに」
寝言に返事をするのと同じようなものだから黙っていると、レンは俺の髪に触れた。
ついぞ見たことのないその行動に「え」とだけ発声して固まっていると、レンはまっすぐに俺の目を見て、それから苦し気に眉根を寄せた。みるみるうちにその目に涙が浮かんできた。
「つらい」
何も言えず茫然としている俺の耳に届いたレンの声は想定外のものだった。これまでの寝言は猫がどうとか、イクリプスを殺すとか、そういうのだった。
瞬きをすると溜まっていた涙が零れ落ちた。泣きながらそれでもレンは無表情で、「さわりたかった」と呟いて冷たい手のひらで今度は俺の顔に触れた。
思わずその手に自分の手を重ねてしまった。自分と違う体温を感じてレンはやっと覚醒したようだった。俺の頬にあった手は離れ、困惑した表情が目の前にあった。それでもその頬に残った涙の跡だけはすぐには乾かない。
「おはよ、寝ぼけてたみたいだな」
言って何事もなかったかのように俺が立ち上がると、レンは顔を背けて目を擦った。何だか見てられなくて、「コーヒー入ってるし、ちょっとでも朝飯食えよ」と言い残して部屋を出た。
『つらい』は何となく分かるにしても、『さわりたかった』は一体なんなのか。レンは前髪を下ろした俺(に似てる奴)が好きなのか、あるいは。
そのあるいはの可能性を考えた瞬間、俺は胸のあたりに手を当てて俯いていた。急な動悸だった。その後も食卓で俯いたまま「え?」とか「は?」とかひとしきり言って気が済んで顔を上げると斜め向かいに座っていたマリオンが唖然としてこちらを見ていた。円滑な人間関係はまだ遠い。
円滑な人間関係の他にも、もう一つ気になる関係性が出来てしまいそうで、俺はリビングに入ってきたレンをちらりと見やった。レンは目が合うとふいと逸らしてしまった。
照れてるんだろうか、そうであればいいと思う俺はもう昨日までと違うんだと実感してしまった。
向かい合わせで座りながら、俺たちは一度も目が合わずにコーヒーを飲み終わった。
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