※アカデミー時代に経験済のレンの話。ド固定の方はご注意ください
アカデミーの広い廊下は、今の時間は教室移動を行う生徒たちの話し声でざわめいている。
レンはロッカーを開けて、次の授業に使う教科書を取り出そうとしていた。その時、背後から名前を呼ばれた。よく知った声である。
「今日の夜…来れる?」
思わず顔がこわばる。振り返って話を聞くと、彼の同室の生徒が今夜も外泊するのだという。噂によるとその生徒はクラブでバイトか何かをしているらしく、女関係も派手で、夜中部屋を空けることはよくあるらしかった。
「なんかね、DJ?やってるらしい、俺もよく知らないけど」
「…へぇ」
「ね…レン、来てくれるだろ? ……この前だって」
柔和な笑みに柔和な声。レンは思わず目を逸らした。いくらざわめいている廊下であっても、このやりとりを誰が聞いているか分かったものではない。『この前』のことについて彼が言及し始めるのを妨げるように「わかった」と返答する。
「あーよかった。じゃあ、また後でメールするから」
ぱっと安堵したような笑顔となって、手を振って踵を返して立ち去っていく。彼の態度はまったく、幼い頃に何度も見た、夕暮れ時に家の前で手を振りあって別れた時と同じなのだった。困惑と罪悪感が拭えないままに受けた次の授業の小テストで、レンは一問ミスをして満点を逃した。
メールで約束した時間、その一時間後にはもう行為は済んでいて、二人はベッドの上で身体を横たえて余韻に浸っていた。
「当たり前だけど、ローションってほんとにぬるぬるするんだなぁ」
「わざわざ、買いに行ったのか」
レンは首を動かして、彼の顔を見て尋ねる。
彼はその視線に気づくと人懐こい笑みを浮かべた。それは人当たりのいい彼の一種の癖のようになっていて、見るたびにレンは感心とも羨望ともつかないような感情を抱く。自分には到底無理だしやろうとも思わない。
「うん、この前はローションも無くて、かなり痛そうにしてたから」
「まぁ、痛かった」
今日はきもちよかった? と、人懐こい笑顔のまま訊いてくる。また言い知れぬ罪悪感のようなものが襲ってきて、レンは黙って上を向いて目を閉じた。
ただの弾みと好奇心だけの行為で、別の感情など微塵も無いことは分かり切っている。自分も相手もそれなりに性欲を持て余していて、夜じゅう同室の生徒は帰ってこないと言われて呼ばれて部屋に行って、久しぶりに他愛のない話をしていたらそういう雰囲気になって、なし崩し的に体を重ねたのがこの間の話だった。
そんな風にして少し前のことをぼんやりと思い返しながら目を閉じたままでいると、音もなく覆い被さってきていて、キスをされてやっと気付いた。目を開くと「もう一回しよっか」と囁かれて、いいとも嫌だとも言わないままで結局また最後までした。
お互いにそういう感情も無いままに行為を重ねるのはやはりどこか無理があったらしく、それからかなり間が開いた後に一度だけしたきりで、やがて一年あまりが経ってアカデミーを卒業していた。
あの頃のことは、お互いにとっては無かったことのようになっており、二度と話題に出すことも無い。
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抱きしめられる強さも、中に押し入ってくる熱の感覚も、全然違うものなんだな、と揺さぶられながらレンは思った。そんなことを考える自分に若干の不快感を抱いた。
二歳年上の男は入所してからのルームメイトで、最初は色々と世話を焼いてくることにうんざりして反発していたのだが、日々を繰り返すうちにいつの間にか好意が育っていたようだった。
「お前は俺だけじゃなくても誰にだって世話焼いてるんだろ、やたら多い弟分とかにもな」
ある時話の流れでそうレンが言うと、次の瞬間唐突にキスをされていた。
レンが目を見開いていると、目の前の男は頬を赤らめながら「世話はともかく、好きなやつに以外にこんなことしねえ」と言った。ガスト、と名を呼ぶと抱きしめられ、そのままベッドに倒れ込んだ。
口に手を当てて声を必死に抑えながら、あの頃とはまた違う罪悪感を覚えていた。
あの時のそれはきっと、弾みだけで関係を持ってしまったことから来るものだった。
今のこれは、間違いなく目の前の男に対する罪悪感だった。
口に当てていた手をゆるく掴まれて、深いキスをされた。行き場のなくなった手でガストの柔らかな茶色い髪に触れる。そのまま手のひらで撫でていると、愛しいという言葉が浮かんだ。
それは初めての経験だった。
「……お前さ、もしかして初めてじゃないのか?」
そう言われレンは思わずガストの表情を窺った。特に怒っているわけでもなく、寝そべって頬杖をつきながらこちらを見ていた。何でだ、と質問に質問で返すと、いや何となくそんな気がして、と言った。
童貞だということが分かり切っている相手に対して、こちらは何の情報も与えていないのだ。不公平かもしれないと思いつつも、レンは「そうだ」とはっきり言ってのけることが出来なかった。生まれて初めて臆病になっていた。嫌われるのがこわいのかもしれない。初めての感情が多く目まぐるしいのに、幸か不幸かそれが表情に出ることはない。
「だったらどうする」
目を伏せながら言うと、ガストはレンの頭に手を乗せて笑った。
「でも、お前が今一番好きなのは俺で、更新されてんだから問題ないだろ」
まったくその通りで、「大した自信だな」だとか「調子に乗るな」などのいつもの憎まれ口も叩けない。
けっこう大人なんだな、とぽつりと出た言葉は本心からのものだった。ガストは「まーな」と嬉しそうに言うとごろりと寝転んで、すぐに寝息を立て始めた。
盗み見たその寝顔は、それでも純真な子供のようで、レンは目が離せずにいつまでも見ていた。
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